About playwright,director and artist Tengai AMANO


天街式天翅盤 -TENGAISHIKI TENSI BAN-

 其の壱 

1960年5月20日、父剛三10年に亘る肺結核療養を経、結婚10年目にして母綾子との間に授かったのが仏、もとい、私、俗名・英則(後の天街)である。
父は毛織物検査所の職員だったが、療養後期、大府のサナトリウムから帰還後、一宮市大和町の借宅を改造し、自宅療養を兼ね、当時流行の「貸本屋」を始めた。
立地は、起(おこし)街道という、旧岐北軽便鉄道甲形や、DD63号、モ40形路面電車が1954年まで走っていた街道沿いの、廃線後はバス路線「一宮女学園前(現・繊維センター前)」が最寄りのバス停。 西に9駅行くと、鳥山明が通っていた「起工業(現・一宮起工科高)前」がある。因みに初代アシスタントの「ひすゎし」は小・中学校の1年先輩。1980年頃、時々会って話してた時期があった。

我が家、向かって左隣が、戦後間もなくハーレーダビッドソンに跨がっていた母の兄が経営の菓子屋、駄菓子屋にあらず。くじ引きやアンズアメ、修学旅行アラレやニッキ、ふ菓子、準チョコレート、ゼリコなどマガイ物は見当たらず、森永、明治、ロッテ、グリコなどメーカー品(カバヤ、フィリップス、チロルなどは微妙)が澄まし顔で並んでいた。パンはフジパン、アイス、肉まんあんまんは井村屋。
右隣は、従軍看護婦をしていた母の姉(夫は戦死)運営の煙草屋であったのだが、知らぬ間に貸本屋とくっついて、1つの店になった。 表から見ると「菓子屋」「煙草屋兼貸本屋」という2軒並びの店舗だが、中に入ると、親戚3世帯並びの家屋と3軒共有のマアマア広い庭が出現する。
父はその庭で薔薇苑を作ったり、シャボテン園を開いたり、トケイソウや三色菫やおじぎ草、オシロイ花を咲き誇らせ、自慢の朝日ペンタックスに光収函させ、写像をコンテストに「天野英則」の名前で応募し「岡本太郎」のブロンズなぞを貰っていた。

隣町は萩原町だが、そこで生まれた舟木一夫が、駅前の銭湯でスカウト、ブレイクしたから大騒ぎ。 初出演映画「高校三年生」や「学園広場」など何本かは近所でロケをしていた。 同じく萩原町在住のアニメーション評論の世界的第一人者森卓也は、先程のバス停でいくと「尾西庁舎前」の尾西市役所で、二足の草鞋を履きながら文筆活動を行った。一宮駅を挟んだ向こう側では大江川リバーサイド・チルドレン、つボイノリオが、バンカラ風にけんかえれじいをキメ暴れまくっていたと聞くが、実は聞いたことがない。

店の前は三星毛糸という1968年には皇太子(今の天皇)と美智子が訪問した(同級生のカクダくんとヨシダさんが正装して、美智子のドレスの裾持ちかなんかをした)一大紡績工場。全国(特に九州)から女工が集められ、終業のサイレンと共に花咲く乙女たちが町に溢れた。 その女工たちが吸い寄せられるように菓子屋と貸本屋にたかったから父たちはウハウハである。ハヤシもあるでよう。
2024年5月、天野天街・記


 天野天街の生地近辺には、かつての工場が今も点在している。2024年4月撮影